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【AKB選抜総選挙速報・前田敦子票の行方】 [ソーシャルメディア]
数字で見ると、昨日発表の速報の上位20人の得票は130487票。昨年速報の前田敦子を除く2位〜21位の20人で113677票で、この増加分16810票は、昨年の速報での前田敦子の得票16452とほぼ同じ。つまり前田敦子票は上位20人に分散したかもしれません。
細かくみると、前田票の受け皿と予想されていた高橋みなみは、今回が8955票、前回は8582票とほとんど変わっていないので、前田敦子票は高橋みなみには流れていないと思えます。国政選挙のように『引退したA氏の票は盟友のB氏に』という浪花節的展開は、AKBファンはしないのかも。
昨年の速報値と比較すると、大きく伸ばしたのが渡辺麻友と指原莉乃。それぞれ2千票くらい増加してます。2位の柏木由紀は600票弱の増加とたいして増えてないです。また、大きく伸びたのは松田珠理奈で5千票増。その意味では、前田票は主に松田珠理奈に流れたと言えるかも。
ちなみに、首位の大島優子は2千票の減。これは反前田票が減った分かと推察されます。
柏木由紀は大島優子の次に位置しますが、前回12056票、今回12654票と600票増とあまり変わりません。前回より人気を多少伸ばした分と考えると、柏木由紀には前田票は入ってないと思えます。
ただ、このアナウンス効果により、これからは2位の柏木由紀が反大島優子票の受け皿になると思えるので、前回の最終得票から大きく伸ばして9万票台に達するかもしれません。また、大島優子は反前田敦子票が入らないために若干前回より減らし、10万票台くらいになるのかも。(今回の2千票減が反前田票の分と思うと、単純な推定で前回の12万票より2万票近く減らす計算になります)
なので、今回は大島優子と2位の柏木由紀がどこまで差が縮まるか、ひょっとしたら僅差で逆転か、というあたりが興味かもしれません。
なお、20位の渡辺美優紀は前回の速報値が無いので、順位はかなり下として、前回の下位の方の得票よりやや下の600票と仮定して計算しています。
H24速報値 H23速報値
大島優子 15093 17156
柏木由紀 12654 12056
渡辺麻友 11329 8582
指原莉乃 9337 7357
高橋みなみ 8955 8833
篠田麻里子 8619 8016
松井玲奈 8460 6559
松井珠理奈 7795 2843
板野友美 6595 6596
宮澤佐江 6280 5157
小嶋陽菜 5334 6534
横山由衣 4301 2753
高木亜樹 3661 5096
梅田彩佳 3484 1441
峰岸みなみ 3396 3931
北原里英 3302 3860
河西智美 3227 3102
山本彩 3218 1444
渡辺美優紀 2976 (600)
高柳明音 2471 1761
細かくみると、前田票の受け皿と予想されていた高橋みなみは、今回が8955票、前回は8582票とほとんど変わっていないので、前田敦子票は高橋みなみには流れていないと思えます。国政選挙のように『引退したA氏の票は盟友のB氏に』という浪花節的展開は、AKBファンはしないのかも。
昨年の速報値と比較すると、大きく伸ばしたのが渡辺麻友と指原莉乃。それぞれ2千票くらい増加してます。2位の柏木由紀は600票弱の増加とたいして増えてないです。また、大きく伸びたのは松田珠理奈で5千票増。その意味では、前田票は主に松田珠理奈に流れたと言えるかも。
ちなみに、首位の大島優子は2千票の減。これは反前田票が減った分かと推察されます。
柏木由紀は大島優子の次に位置しますが、前回12056票、今回12654票と600票増とあまり変わりません。前回より人気を多少伸ばした分と考えると、柏木由紀には前田票は入ってないと思えます。
ただ、このアナウンス効果により、これからは2位の柏木由紀が反大島優子票の受け皿になると思えるので、前回の最終得票から大きく伸ばして9万票台に達するかもしれません。また、大島優子は反前田敦子票が入らないために若干前回より減らし、10万票台くらいになるのかも。(今回の2千票減が反前田票の分と思うと、単純な推定で前回の12万票より2万票近く減らす計算になります)
なので、今回は大島優子と2位の柏木由紀がどこまで差が縮まるか、ひょっとしたら僅差で逆転か、というあたりが興味かもしれません。
なお、20位の渡辺美優紀は前回の速報値が無いので、順位はかなり下として、前回の下位の方の得票よりやや下の600票と仮定して計算しています。
H24速報値 H23速報値
大島優子 15093 17156
柏木由紀 12654 12056
渡辺麻友 11329 8582
指原莉乃 9337 7357
高橋みなみ 8955 8833
篠田麻里子 8619 8016
松井玲奈 8460 6559
松井珠理奈 7795 2843
板野友美 6595 6596
宮澤佐江 6280 5157
小嶋陽菜 5334 6534
横山由衣 4301 2753
高木亜樹 3661 5096
梅田彩佳 3484 1441
峰岸みなみ 3396 3931
北原里英 3302 3860
河西智美 3227 3102
山本彩 3218 1444
渡辺美優紀 2976 (600)
高柳明音 2471 1761
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金正恩は武田勝頼か?
金正日総書記の三男の金正恩氏による権力継承が話題になってます。これと似た例を過去の日本史で考えると、戦国時代に武田信玄から権力を継承した武田勝頼と似ているのかなと思えます。
武田信玄は大永元年(1521年)生まれ、元亀4年4月12日(1573年5月13日)没。戦国時代を代表する戦国大名の1人である。彼には確認出来るだけで10人くらいの男子がいるが、嫡男は天文7年(1538年)生まれの武田義信であった。義信は長子である上に正室三条氏が母で家柄がよく、自身は今川義元の娘を娶っている。しかも、「義」の字は当時の室町幕府13代将軍義輝よりの偏諱を受けていて、しかも永禄元年(1558年)に准三管領としての待遇を受けていて、いわば室町幕府の管領並みと世間から公式に認められていた存在であった。戦国時代でも形式的に室町幕府体制は続いており、領国を統治する際に室町幕府体制下での公式な支配権を領国に持っていることが朝廷と幕府に認められていることは、大きな力になっていた。ちなみに父信玄は朝廷・幕府から甲斐守護、信濃守護として認められており、実力だけでなく名分としてもその領国二カ国の支配権を持っていて、それが統治に大きく役立っていたと思われる。
その長子義信が、後年、今川義元敗死後の駿河・遠江に進出するかどうかの政治路線の対立から永禄8年(1565年)に廃嫡され、その2年後に死去する(病死とも自害に追い込まれたとも、諸説あり)。その際に、急遽跡継ぎに指名されたのが、四男の武田勝頼である。信玄の次男信親は生まれつき盲目で出家していて、三男信之は早世しているので、勝頼は実質上の次男であった。しかし、年齢は天文15年(1546年)の生まれなので、兄義信より8歳年下である。あまりにも急な後継指名なので、官位はなく(急ぎ奏請したが織田信長の妨害で果たせず)、将軍家からの偏諱もない。そして、義信廃嫡時は武田勝頼では無く、母の実家の諏訪家を継いで諏訪勝頼であったので、領国内の家臣から見れば、正統性に欠けると言わざるを得ない。兄義信の廃嫡後、急遽後継指名されるが、そのわずか8年後に父信玄が死去。領国を統治する充分な正統性、権力掌握ができないままに武田氏のトップとなったわけである。しかも、その長男信勝の元服までのトップ代理という立場で。
そうした、権力基盤の弱体な勝頼は、戦いで勝ってその実力を示し、家臣に支配を納得させる必要があった。そうした権力掌握の過程として長篠の戦いが起き、織田・徳川連合軍に大敗する。その後7年、再起に苦労するが、結局、織田信忠によって天正10年に滅ぼされる。
こうして勝頼を振り返ると、長男がいたのに急な後継指名、長男を重要視する朝鮮半島の文化から見ての正統性の欠如など、金正恩氏の場合と似た部分もある。しかも、勝頼は後継指名から8年間、父信玄が存命で、後継者としての帝王学を学ぶ機会も多かったが、金正恩氏はわずか3年足らずであり、勝頼よりもさらに不利である。
こうした事を勘案すると、勝頼の轍を踏まなければよいがと思わざるを得ない。
武田信玄は大永元年(1521年)生まれ、元亀4年4月12日(1573年5月13日)没。戦国時代を代表する戦国大名の1人である。彼には確認出来るだけで10人くらいの男子がいるが、嫡男は天文7年(1538年)生まれの武田義信であった。義信は長子である上に正室三条氏が母で家柄がよく、自身は今川義元の娘を娶っている。しかも、「義」の字は当時の室町幕府13代将軍義輝よりの偏諱を受けていて、しかも永禄元年(1558年)に准三管領としての待遇を受けていて、いわば室町幕府の管領並みと世間から公式に認められていた存在であった。戦国時代でも形式的に室町幕府体制は続いており、領国を統治する際に室町幕府体制下での公式な支配権を領国に持っていることが朝廷と幕府に認められていることは、大きな力になっていた。ちなみに父信玄は朝廷・幕府から甲斐守護、信濃守護として認められており、実力だけでなく名分としてもその領国二カ国の支配権を持っていて、それが統治に大きく役立っていたと思われる。
その長子義信が、後年、今川義元敗死後の駿河・遠江に進出するかどうかの政治路線の対立から永禄8年(1565年)に廃嫡され、その2年後に死去する(病死とも自害に追い込まれたとも、諸説あり)。その際に、急遽跡継ぎに指名されたのが、四男の武田勝頼である。信玄の次男信親は生まれつき盲目で出家していて、三男信之は早世しているので、勝頼は実質上の次男であった。しかし、年齢は天文15年(1546年)の生まれなので、兄義信より8歳年下である。あまりにも急な後継指名なので、官位はなく(急ぎ奏請したが織田信長の妨害で果たせず)、将軍家からの偏諱もない。そして、義信廃嫡時は武田勝頼では無く、母の実家の諏訪家を継いで諏訪勝頼であったので、領国内の家臣から見れば、正統性に欠けると言わざるを得ない。兄義信の廃嫡後、急遽後継指名されるが、そのわずか8年後に父信玄が死去。領国を統治する充分な正統性、権力掌握ができないままに武田氏のトップとなったわけである。しかも、その長男信勝の元服までのトップ代理という立場で。
そうした、権力基盤の弱体な勝頼は、戦いで勝ってその実力を示し、家臣に支配を納得させる必要があった。そうした権力掌握の過程として長篠の戦いが起き、織田・徳川連合軍に大敗する。その後7年、再起に苦労するが、結局、織田信忠によって天正10年に滅ぼされる。
こうして勝頼を振り返ると、長男がいたのに急な後継指名、長男を重要視する朝鮮半島の文化から見ての正統性の欠如など、金正恩氏の場合と似た部分もある。しかも、勝頼は後継指名から8年間、父信玄が存命で、後継者としての帝王学を学ぶ機会も多かったが、金正恩氏はわずか3年足らずであり、勝頼よりもさらに不利である。
こうした事を勘案すると、勝頼の轍を踏まなければよいがと思わざるを得ない。
『つながり』を読んで:パートナーとの出会いと日本の少子化現象 [書評]
ニコラスAクリスタキスとジェイムズHファウラーの『つながり 社会的ネットワークの驚くべき力』を読んでの感想です。と言っても、まだ読了したわけではなく、読みつつ感想を書いていく、ということ。
まず、第3章「ともにいる者を愛す」で、男女がパートナーと出会うことに社会的ネットワークが働いているということが、述べられている。シカゴでの調査
E.OLauann et al, The Social Organization of Sexuality : Sexual Practices in the United States (Chicago University of Chicago Press, 1994)
をベースに、アメリカの男女の出会いは、親戚や友人など、男女の両方をよく知っている、当人たちと1次や2次の繋がりの人たちのネットワークが大きな役割を果たしているという結果をいろいろ紹介し、考察している。アメリカでも、日本からのイメージと違い、自分でパートナーを見つける人はむしろ少数派で、友人のネットワークが大きな役割を果たしているらしい。もちろん、最近はFacebookなどによる出会いも増えていると指摘しているが、やはりアメリカでも男女両方をよく知っている人からの紹介が大きな役割を果たすという点は、当分変わらないと主張してます。
翻って、日本の少子化現象、さらには独身男女が恋愛に消極的ということをこの章の内容から考えてみました。日本でも、アメリカと同様に社会的ネットワークによる紹介が男女の出会いに大きな役割を果たしていると考えると、最近の恋愛しない男女、出会いに消極的な男女が多いというのは、現代の日本では男女の出会いを支える社会的ネットワークに支障が出てきているのではないかと思えるのです。ここで言う社会的ネットワークはFacebook, twitterやmixiなどのことではなく、現実のリアルに繋がってる友人知人のネットワークである。
男女の出会いを支える、つまり本書が指摘する、男女双方をよく知っている友人知人が出会いをアレンジするためには、紹介したい男女両方をよく知っている友人が何人かいることが不可欠でです。これが現代の日本で消滅しつつあるのではないか、それが恋愛の減少、出会いの減少の原因なのではないかと思えてきます。男女双方をよく知っている友人たちがパートナーとして紹介してあげるためには、男女がほどよく入り混じっている繋がり、ネットワークのクラスタが必要である。それが今の日本ではどんどん少なくなってきているのではないか。
どういうことかというと、男女が入り混じって存在し、恋のキューピット役となるネットワーククラスタとは、例えば学校や職場の人々の繋がり、趣味の友人の繋がり、スポーツの場での繋がり、馴染みの居酒屋の繋がり、ご近所の繋がり、などであります。これが日本で減少しているのかなと思ったのです。もちろん、これらの繋がりは当然ありますが、今の日本ではこれらの繋がりがどんどん男女別に分かれて形成されるようになっていって、男女、特に未婚の若い男女が入り混じった、適当な大きさ(ノードの数、つまり参加者の数)と親密度のクラスターが、不足してきているのではないか、ということです。
かつての、戦前の日本では、家長制度という法律に守られて、「家」という存在が大きかったです。家の制度では本家と分家が血縁で結合し、本家のトップがその全体を面倒みていて、法律的にもその権限が保証されてました。なので、本家分家は盆や正月などいろいろな機会に顔を合わせ、本家のトップは分家の隅々まで気を配っています。その時代では、たとえばある家で息子の太郎君のお相手を探そうという場合、まずは身近の別の家の本家を訪ね、相談します。
「うちの太郎にそろそろ嫁さんをと思うけど、そっちの家に誰かいるかな?」
「そうだなぁ・・・、おお、分家の権蔵のところの三女がそろそろ女学校を卒業するはずだ・・・。あの娘ならいい嫁になるだろうが、そっちの太郎君とやらは、どんな人だ?」
なんて会話で、それなりにカップルとしてお似合いかどうか、周囲で考えた上で見合いとなっていたわけです。これをネットワークとしてみると、本家分家の家制度自体が、男女が入り混じったクラスターとして働いていることがわかります。
家制度を復活しろとはいいませんが、それに代わる仕組みを生み出すことに、戦後日本が失敗したのかもしれません。欧米なら、教会に集う人たちの集まりが、その地域のネットワーククラスターと言えるかもしれません。つまり、戦前日本での家制度と似た役割は、教会のクラスターで果たされていたかもしれません。
今の日本では、本家なんてそもそも存在しないし、各家庭一軒一軒回って適当なお相手がいるかどうか、聞いて回っていたらきりがありません。ご近所仲間といっても、一般には近所の繋がりは、今の日本では主婦が中心であり、どうしても女性中心のクラスタになりますから、男性の情報は入りにくいでしょう。逆に職場は男性が中心のクラスタになりますし、女性がかなりいる職場でも、正社員クラスタはほどんど男性、派遣社員クラスタは女性ばかりで、お互いの交流が無い、ということは少なくないでしょう。中高のクラスメートは男女入り混じることが多いですが、同じ年齢に限られてしまうので、男女で若干年齢差があることが多い恋愛のパートナーを支援するクラスタとしては不十分です。このように、日本の社会の隅々が、意外に男女別クラスタに別れてしまっていることが、恋愛が減ってきている原因の1つにあるかもしれません。
Facebookやtwitter、mixiなどのSNSも、そうした男女の入り混じったクラスターとして機能することが期待されますが、これらはあまりにも規模が大きく、リアルに会ったことのない人たち同士では、なかなか恋愛パートナーの紹介まで行けないでしょう。出会い系サイトのようにいきなり本人同士が接触して探り合うのではなく、本来は男女両方をよく知っていて仲介できる人たちが何人かいることが望ましいので、その点では今のSNSはちょっと不十分と言えるでしょう。
ネットワークのシミュレーションで、社会のネットワークがいくつかのクラスターに別れ、恋愛の可能性のある独身男女の入り混じりがどれくらいかの割合を変えて計算してみると、男女の入り混じりがあるしきい値を下回ったとき、急激にカップル成立の割合が減少するという非線形現象が出てくる可能性はありましね。そして、今の日本はそのカップル率の急減少に近い状況になっているのではと予想してしまいます。
なんて、こんなことを、3章まで読んだところで考えました。上記の考えの裏付けの統計調査などはしてないですが、過去に調査があれば、参考にして考えてみたいですね。
まず、第3章「ともにいる者を愛す」で、男女がパートナーと出会うことに社会的ネットワークが働いているということが、述べられている。シカゴでの調査
E.OLauann et al, The Social Organization of Sexuality : Sexual Practices in the United States (Chicago University of Chicago Press, 1994)
をベースに、アメリカの男女の出会いは、親戚や友人など、男女の両方をよく知っている、当人たちと1次や2次の繋がりの人たちのネットワークが大きな役割を果たしているという結果をいろいろ紹介し、考察している。アメリカでも、日本からのイメージと違い、自分でパートナーを見つける人はむしろ少数派で、友人のネットワークが大きな役割を果たしているらしい。もちろん、最近はFacebookなどによる出会いも増えていると指摘しているが、やはりアメリカでも男女両方をよく知っている人からの紹介が大きな役割を果たすという点は、当分変わらないと主張してます。
翻って、日本の少子化現象、さらには独身男女が恋愛に消極的ということをこの章の内容から考えてみました。日本でも、アメリカと同様に社会的ネットワークによる紹介が男女の出会いに大きな役割を果たしていると考えると、最近の恋愛しない男女、出会いに消極的な男女が多いというのは、現代の日本では男女の出会いを支える社会的ネットワークに支障が出てきているのではないかと思えるのです。ここで言う社会的ネットワークはFacebook, twitterやmixiなどのことではなく、現実のリアルに繋がってる友人知人のネットワークである。
男女の出会いを支える、つまり本書が指摘する、男女双方をよく知っている友人知人が出会いをアレンジするためには、紹介したい男女両方をよく知っている友人が何人かいることが不可欠でです。これが現代の日本で消滅しつつあるのではないか、それが恋愛の減少、出会いの減少の原因なのではないかと思えてきます。男女双方をよく知っている友人たちがパートナーとして紹介してあげるためには、男女がほどよく入り混じっている繋がり、ネットワークのクラスタが必要である。それが今の日本ではどんどん少なくなってきているのではないか。
どういうことかというと、男女が入り混じって存在し、恋のキューピット役となるネットワーククラスタとは、例えば学校や職場の人々の繋がり、趣味の友人の繋がり、スポーツの場での繋がり、馴染みの居酒屋の繋がり、ご近所の繋がり、などであります。これが日本で減少しているのかなと思ったのです。もちろん、これらの繋がりは当然ありますが、今の日本ではこれらの繋がりがどんどん男女別に分かれて形成されるようになっていって、男女、特に未婚の若い男女が入り混じった、適当な大きさ(ノードの数、つまり参加者の数)と親密度のクラスターが、不足してきているのではないか、ということです。
かつての、戦前の日本では、家長制度という法律に守られて、「家」という存在が大きかったです。家の制度では本家と分家が血縁で結合し、本家のトップがその全体を面倒みていて、法律的にもその権限が保証されてました。なので、本家分家は盆や正月などいろいろな機会に顔を合わせ、本家のトップは分家の隅々まで気を配っています。その時代では、たとえばある家で息子の太郎君のお相手を探そうという場合、まずは身近の別の家の本家を訪ね、相談します。
「うちの太郎にそろそろ嫁さんをと思うけど、そっちの家に誰かいるかな?」
「そうだなぁ・・・、おお、分家の権蔵のところの三女がそろそろ女学校を卒業するはずだ・・・。あの娘ならいい嫁になるだろうが、そっちの太郎君とやらは、どんな人だ?」
なんて会話で、それなりにカップルとしてお似合いかどうか、周囲で考えた上で見合いとなっていたわけです。これをネットワークとしてみると、本家分家の家制度自体が、男女が入り混じったクラスターとして働いていることがわかります。
家制度を復活しろとはいいませんが、それに代わる仕組みを生み出すことに、戦後日本が失敗したのかもしれません。欧米なら、教会に集う人たちの集まりが、その地域のネットワーククラスターと言えるかもしれません。つまり、戦前日本での家制度と似た役割は、教会のクラスターで果たされていたかもしれません。
今の日本では、本家なんてそもそも存在しないし、各家庭一軒一軒回って適当なお相手がいるかどうか、聞いて回っていたらきりがありません。ご近所仲間といっても、一般には近所の繋がりは、今の日本では主婦が中心であり、どうしても女性中心のクラスタになりますから、男性の情報は入りにくいでしょう。逆に職場は男性が中心のクラスタになりますし、女性がかなりいる職場でも、正社員クラスタはほどんど男性、派遣社員クラスタは女性ばかりで、お互いの交流が無い、ということは少なくないでしょう。中高のクラスメートは男女入り混じることが多いですが、同じ年齢に限られてしまうので、男女で若干年齢差があることが多い恋愛のパートナーを支援するクラスタとしては不十分です。このように、日本の社会の隅々が、意外に男女別クラスタに別れてしまっていることが、恋愛が減ってきている原因の1つにあるかもしれません。
Facebookやtwitter、mixiなどのSNSも、そうした男女の入り混じったクラスターとして機能することが期待されますが、これらはあまりにも規模が大きく、リアルに会ったことのない人たち同士では、なかなか恋愛パートナーの紹介まで行けないでしょう。出会い系サイトのようにいきなり本人同士が接触して探り合うのではなく、本来は男女両方をよく知っていて仲介できる人たちが何人かいることが望ましいので、その点では今のSNSはちょっと不十分と言えるでしょう。
ネットワークのシミュレーションで、社会のネットワークがいくつかのクラスターに別れ、恋愛の可能性のある独身男女の入り混じりがどれくらいかの割合を変えて計算してみると、男女の入り混じりがあるしきい値を下回ったとき、急激にカップル成立の割合が減少するという非線形現象が出てくる可能性はありましね。そして、今の日本はそのカップル率の急減少に近い状況になっているのではと予想してしまいます。
なんて、こんなことを、3章まで読んだところで考えました。上記の考えの裏付けの統計調査などはしてないですが、過去に調査があれば、参考にして考えてみたいですね。
鳥取大学と(株)エム・データ、(株)ホットリンクで共同実施 「大阪ダブル選挙のクロスメディア分析」シンポジウムをしました [大ヒットの方程式]
先月の大阪W選挙の解析をソーシャルメディアの分析から進めた共同研究をエムデータ社、ホットリンク社と鳥取大学(の工学研究科機械宇宙工学専攻石井研究室)で行った成果を、12月7日にデジタルハリウッド大学秋葉原校の教室を会場として行われました。当日は準備していた教室はほぼ満席で、ざっと40人近くいたのかなと思います。共同研究はエムデータ社によるTV露出のデータ検索結果と、ホットリンク社のクチコミ係長によるソーシャルメディアのデータ検索結果を、著書「大ヒットの方程式」に述べたヒット現象の数理モデルの手法で解析してみるというものです。
私の発表の勘所は、今回の大阪市長選挙の橋下vs平松で、両者にヒット現象の数理モデルの観点で大きな差があったことの指摘です。特に、直接コミュニケーションと間接コミュニケーションの強度で橋下氏が圧倒的に優勢でした。その論点の補強のため、昨年の参議院選挙大阪地方区の分析もした結果、やはり直接コミュニケーションと間接コミュニケーションの強度の大きい順で投票結果が説明できることがわかりました。この大阪地方区ではタレントの岡部まりさんが次点だったのですが、知名度があるにもかかわらず次点となった理由も、この観点から説明できることがわかりました。
当日の私と院生の林君の発表は録画されており、いずれ編集されて公開されるんだろうと思いますが、今のところ、まだ私もその録画ビデオは見てません。
プレスリリース
http://www.damp.tottori-u.ac.jp/~lab3/MD_newsrelease_1202.pdf
http://www.damp.tottori-u.ac.jp/~lab3/MD_newsrelease_1125.pdf
私の発表の勘所は、今回の大阪市長選挙の橋下vs平松で、両者にヒット現象の数理モデルの観点で大きな差があったことの指摘です。特に、直接コミュニケーションと間接コミュニケーションの強度で橋下氏が圧倒的に優勢でした。その論点の補強のため、昨年の参議院選挙大阪地方区の分析もした結果、やはり直接コミュニケーションと間接コミュニケーションの強度の大きい順で投票結果が説明できることがわかりました。この大阪地方区ではタレントの岡部まりさんが次点だったのですが、知名度があるにもかかわらず次点となった理由も、この観点から説明できることがわかりました。
当日の私と院生の林君の発表は録画されており、いずれ編集されて公開されるんだろうと思いますが、今のところ、まだ私もその録画ビデオは見てません。
プレスリリース
http://www.damp.tottori-u.ac.jp/~lab3/MD_newsrelease_1202.pdf
http://www.damp.tottori-u.ac.jp/~lab3/MD_newsrelease_1125.pdf
『スティーブ・ジョブズ』を読んで [書評]
アップル創業者であり、アップルを中心にITの世界に大革命をもたらしたスティーブジョブズの伝記である。スティーブ・ジョブズがアップルのCEOを退任した機会に出版するつもりが、結果的にジョブズ氏追悼の伝記になってしまったという本である。既に多くの人が読まれていると思うので、いまさら感想を書いてもこれを役立てる人はあるまいとは思うが、他の人とは違う、私なりの感想を書かせてもらうことにする。
まず、この本の意義だが、それはこの本が限りなく、スティーブ・ジョブズの「自伝」に近いということである。もちろん、本人か書いた物では無いので自伝とは言えないが、スティーブの性格から言って、どんなに長生きしても自分で自伝を書いたとは思えない。そして、本書は書くにあたってスティーブ・ジョブズ自身が極めて協力的にインタビューに応じており、そして作者のウォルター・アイザックソンもスティーブ自身が協力したという歴史的意義を充分に理解し、本書の随所にスティーブ・ジョブズ自身のコメントが入れられている。それによって、コンピュータの歴史の上の大事件などで、スティーブ・ジョブズ本人がどう考えていたのか、少なくとも本人のコメントとしてそれが読める形になっている。いずれ、もっと大局的に1960年代〜2020年代のコンピュータ・ネットワークの歴史がまとめられると思うが、そうした科学史、技術史を書く上での第一級史料の1つに本書はなるであろう。(歴史学における第一級史料とは、その内容の素晴らしさからではなく、同時代に当事者の手によって書かれた文献を指す。例えば藤原道長の日記や信長公記など)
この本を一読して、スティーブ・ジョブズの特異な性格に驚く読者も多いだろう。私もその1人である。ただ、本書を読めば読むほど、私は物理学史上のある有名人を連想するようになった。その人は非常に潔癖症というか、間違いや仕事の質に厳しい人で、質の悪い研究、誤りがあると思われる研究には遠慮会釈無く攻撃し、相手を馬鹿だ、間抜けだ、時間の無駄だった、すぐにここから出ていけと口汚くののしる。そしてそれは相手が目上だろうと一切関係ない。ある意味では非常に無礼であり、それだけに周囲から怖れられる存在となるのだが、その判断が常に公平で誤りが無いことから、悔しくてもその言うことを認めざるを得ない事が多い。
こう書いていくと、スティーブ・ジョブズによく似てると思われないだろうか?この人はオーストリア生まれの物理学者、ヴォルフガング・パウリである。パウリはノーベル賞受賞者であり、その辛辣で的確な評価で、ある研究にパウリが同意すると、「パウリの裁可を得た」と言われた。スティーブ・ジョブズにライバルとしてビル・ゲイツがいるように、パウリにも研究を共に進め、また競い合ったほぼ同年のライバル、ヴェルナー・ハイゼンベルクがいる。こう考えると、スティーブ・ジョブズという個性もまた、2人といない個性というほどではないかも、と思えてくる。
さて、スティーブ・ジョブズは1955年2月24日生まれである。私はぼほ2年年下であるが、だいたい同じ時代を生きてきたと言っていい。それだけに、第1巻を読んでいくにあたり、あの頃はそうだった、こんな事があった、などと同時代を生きてきた者だけが味わえる感慨を持ちながら読み進むことが出来た。
また、本書の特徴として、今まであまり書かれていない貴重な記述がたくさん出てくることが挙げられる。それは、以下のことについての記述である。
・家族関係のこと(養子の話、リサの話、実の妹、結婚、子供等)
・ネクストステップでのスティーブ・ジョブズ
・ピクサーでのスティーブ・ジョブズ
・闘病の話
スティーブ・ジョブズはこれまでにも多くの本で語られてきたが、その多くはアップルの歴史としてのジョブズであり、スティーブ・ジョブズがアップルを離れていた期間は、主にアップル社の迷走を詳述することが多く、その間のスティーブ・ジョブズの動きは簡単に触れる程度であった。それが、本書では大々的に触れていて、特にピクサーのジョブズがこれほど書かれたのは本書が初めてではないか。ピクサーでの苦闘と最後の成功は、その後のアップルでのジョブズの活躍を準備する意味で欠かすことのできない部分であり、その意味でも貴重な本と言える。
第2巻でスティーブ・ジョブズがアップルに復帰してからは、iMac, MacOS X, iPod, iPhone, iPad, iCloudと、我々に馴染みのある、つい最近の製品の開発の裏話が続出で、加速度的にページをめくってしまう。これらの製品の発表会におけるジョブズの姿は我々も当時のニュースで知ってるだけに、その裏側はこうだったのかと、いろいろと興味深い。
第2巻では、そうした明るい話題と対をなすように、闘病の話が出てくる。本書の記述の最後からわずか2ヶ月くらいでスティーブ・ジョブズは亡くなるので、その最後の姿まで、ほとんどを書き尽くしたと言っていいだろう。ビル・ゲイツとの最後の会話など、読んでいて心に迫るものがある。
本書は、アップルファンのみならず、携帯の進歩に興味ある人、クラウドに興味在ある人、電子書籍に興味ある人、など、技術の進歩とそれによる未来に興味ある全ての人に勧められる本と思います。

まず、この本の意義だが、それはこの本が限りなく、スティーブ・ジョブズの「自伝」に近いということである。もちろん、本人か書いた物では無いので自伝とは言えないが、スティーブの性格から言って、どんなに長生きしても自分で自伝を書いたとは思えない。そして、本書は書くにあたってスティーブ・ジョブズ自身が極めて協力的にインタビューに応じており、そして作者のウォルター・アイザックソンもスティーブ自身が協力したという歴史的意義を充分に理解し、本書の随所にスティーブ・ジョブズ自身のコメントが入れられている。それによって、コンピュータの歴史の上の大事件などで、スティーブ・ジョブズ本人がどう考えていたのか、少なくとも本人のコメントとしてそれが読める形になっている。いずれ、もっと大局的に1960年代〜2020年代のコンピュータ・ネットワークの歴史がまとめられると思うが、そうした科学史、技術史を書く上での第一級史料の1つに本書はなるであろう。(歴史学における第一級史料とは、その内容の素晴らしさからではなく、同時代に当事者の手によって書かれた文献を指す。例えば藤原道長の日記や信長公記など)
この本を一読して、スティーブ・ジョブズの特異な性格に驚く読者も多いだろう。私もその1人である。ただ、本書を読めば読むほど、私は物理学史上のある有名人を連想するようになった。その人は非常に潔癖症というか、間違いや仕事の質に厳しい人で、質の悪い研究、誤りがあると思われる研究には遠慮会釈無く攻撃し、相手を馬鹿だ、間抜けだ、時間の無駄だった、すぐにここから出ていけと口汚くののしる。そしてそれは相手が目上だろうと一切関係ない。ある意味では非常に無礼であり、それだけに周囲から怖れられる存在となるのだが、その判断が常に公平で誤りが無いことから、悔しくてもその言うことを認めざるを得ない事が多い。
こう書いていくと、スティーブ・ジョブズによく似てると思われないだろうか?この人はオーストリア生まれの物理学者、ヴォルフガング・パウリである。パウリはノーベル賞受賞者であり、その辛辣で的確な評価で、ある研究にパウリが同意すると、「パウリの裁可を得た」と言われた。スティーブ・ジョブズにライバルとしてビル・ゲイツがいるように、パウリにも研究を共に進め、また競い合ったほぼ同年のライバル、ヴェルナー・ハイゼンベルクがいる。こう考えると、スティーブ・ジョブズという個性もまた、2人といない個性というほどではないかも、と思えてくる。
さて、スティーブ・ジョブズは1955年2月24日生まれである。私はぼほ2年年下であるが、だいたい同じ時代を生きてきたと言っていい。それだけに、第1巻を読んでいくにあたり、あの頃はそうだった、こんな事があった、などと同時代を生きてきた者だけが味わえる感慨を持ちながら読み進むことが出来た。
また、本書の特徴として、今まであまり書かれていない貴重な記述がたくさん出てくることが挙げられる。それは、以下のことについての記述である。
・家族関係のこと(養子の話、リサの話、実の妹、結婚、子供等)
・ネクストステップでのスティーブ・ジョブズ
・ピクサーでのスティーブ・ジョブズ
・闘病の話
スティーブ・ジョブズはこれまでにも多くの本で語られてきたが、その多くはアップルの歴史としてのジョブズであり、スティーブ・ジョブズがアップルを離れていた期間は、主にアップル社の迷走を詳述することが多く、その間のスティーブ・ジョブズの動きは簡単に触れる程度であった。それが、本書では大々的に触れていて、特にピクサーのジョブズがこれほど書かれたのは本書が初めてではないか。ピクサーでの苦闘と最後の成功は、その後のアップルでのジョブズの活躍を準備する意味で欠かすことのできない部分であり、その意味でも貴重な本と言える。
第2巻でスティーブ・ジョブズがアップルに復帰してからは、iMac, MacOS X, iPod, iPhone, iPad, iCloudと、我々に馴染みのある、つい最近の製品の開発の裏話が続出で、加速度的にページをめくってしまう。これらの製品の発表会におけるジョブズの姿は我々も当時のニュースで知ってるだけに、その裏側はこうだったのかと、いろいろと興味深い。
第2巻では、そうした明るい話題と対をなすように、闘病の話が出てくる。本書の記述の最後からわずか2ヶ月くらいでスティーブ・ジョブズは亡くなるので、その最後の姿まで、ほとんどを書き尽くしたと言っていいだろう。ビル・ゲイツとの最後の会話など、読んでいて心に迫るものがある。
本書は、アップルファンのみならず、携帯の進歩に興味ある人、クラウドに興味在ある人、電子書籍に興味ある人、など、技術の進歩とそれによる未来に興味ある全ての人に勧められる本と思います。

- 作者: ウォルター・アイザックソン
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/10/25
- メディア: ハードカバー
『大学教員 採用・人事のカラクリ』を読んで [書評]
櫻田大造著『大学教員 採用・人事のカラクリ』(中公新書ラクレ)を読みました。
ざっと、感想と、それに加えて自分のことも。
この本は大学教員への採用、および大学教員の人事について書かれた本で、一昔前の鷲田小彌太さんの「大学教授になる方法」とはまた違った(時代が違った)、新たな、大学教授になる方法の本と言えます。内容を見ると、現に大学教授をしている私の目からみて、きわめてまとも。本書を一読して、その言うことを非常に大雑把に要約すると、次のようになるでしょうか。
・大学教員になるには、博士号が必要(一部の幸運な分野を除く)
・研究する上で研究分野が世の中から必要とれているかを考える必要はないけど
大学教員のポストの数は、世の中から見ての必要性で決まる。
・大学教員は公募が増えている
・大学教員の公募を受けるなら、自分の年齢や研究分野、自分の実力をよく考えましょう
・そもそも、専任の大学教員は忙しく、優雅ではない
・採用されるに当たって重要視されるのは、研究業績、教育能力(経験)、管理能力
ね、大学の先生をやってる身からみると、当たり前のことばかりでしょ?
この本の著者は政治学ですから、物理学の私から見ると文系理系の違いはありますけど
書かれていることは、同意できることばかりです。
ところで、本書の冒頭に優雅なA教授と悲惨なB教授の喩え話が出てきます。
本書の本筋とは関係ないですが、この優雅なA教授が今の私と似てるところが多いので、おお、私は優雅な教授生活なんだぁ、と再認識しちゃったところです。
この本に出てくる優雅なA教授の生活と私の生活の相違点は
・朝10時に出勤は同じ。ただ、私は通勤は自転車で5分。
・同じく、優秀な秘書がいる
・A教授は年収1350万だが、私は国立大なのでそんなに多くない
・今年の外部からの研究資金はA教授は500万だが、私はその数倍
・A教授の雑収入は300万だが、わたしはその百分の一も無い
・講義の数はA教授と私、週3つで同じ
・授業では、A教授の講義と同じで、ウチの学生も真面目です
・研究室の学生は学部も院も少人数という点で同じ
・息子が受験で高3ということも、同じ
・サバティカルは、無い
旧帝大系から来た同僚の先生方は、地方国立大の先生は悲惨とか言うけどこの本でいろいろ比べると、私のいる鳥取大工学部も、条件は悪くないですね。既に大学の先生になってる人は、そんな風に自分の状況と他の大学とを比べるということも、本書からできます。
社会人の人で社内で研究やそれに近いことをしている人の中には、会社で管理職になるよりも大学教員を目指す人も少なくないと思います。そんな人にとっても、どの分野で考えるか、自分の年齢を考えてどう公募戦略を立てるかなど、非常に参考になる、オススメの本です。拾い読みでなく、社会人の人こそ、じっくりと全部読まれて、大学教員とはどんな職業でどんな労働環境か、よくわかってから、公募に挑まれることを勧めます。
ざっと、感想と、それに加えて自分のことも。
この本は大学教員への採用、および大学教員の人事について書かれた本で、一昔前の鷲田小彌太さんの「大学教授になる方法」とはまた違った(時代が違った)、新たな、大学教授になる方法の本と言えます。内容を見ると、現に大学教授をしている私の目からみて、きわめてまとも。本書を一読して、その言うことを非常に大雑把に要約すると、次のようになるでしょうか。
・大学教員になるには、博士号が必要(一部の幸運な分野を除く)
・研究する上で研究分野が世の中から必要とれているかを考える必要はないけど
大学教員のポストの数は、世の中から見ての必要性で決まる。
・大学教員は公募が増えている
・大学教員の公募を受けるなら、自分の年齢や研究分野、自分の実力をよく考えましょう
・そもそも、専任の大学教員は忙しく、優雅ではない
・採用されるに当たって重要視されるのは、研究業績、教育能力(経験)、管理能力
ね、大学の先生をやってる身からみると、当たり前のことばかりでしょ?
この本の著者は政治学ですから、物理学の私から見ると文系理系の違いはありますけど
書かれていることは、同意できることばかりです。
ところで、本書の冒頭に優雅なA教授と悲惨なB教授の喩え話が出てきます。
本書の本筋とは関係ないですが、この優雅なA教授が今の私と似てるところが多いので、おお、私は優雅な教授生活なんだぁ、と再認識しちゃったところです。
この本に出てくる優雅なA教授の生活と私の生活の相違点は
・朝10時に出勤は同じ。ただ、私は通勤は自転車で5分。
・同じく、優秀な秘書がいる
・A教授は年収1350万だが、私は国立大なのでそんなに多くない
・今年の外部からの研究資金はA教授は500万だが、私はその数倍
・A教授の雑収入は300万だが、わたしはその百分の一も無い
・講義の数はA教授と私、週3つで同じ
・授業では、A教授の講義と同じで、ウチの学生も真面目です
・研究室の学生は学部も院も少人数という点で同じ
・息子が受験で高3ということも、同じ
・サバティカルは、無い
旧帝大系から来た同僚の先生方は、地方国立大の先生は悲惨とか言うけどこの本でいろいろ比べると、私のいる鳥取大工学部も、条件は悪くないですね。既に大学の先生になってる人は、そんな風に自分の状況と他の大学とを比べるということも、本書からできます。
社会人の人で社内で研究やそれに近いことをしている人の中には、会社で管理職になるよりも大学教員を目指す人も少なくないと思います。そんな人にとっても、どの分野で考えるか、自分の年齢を考えてどう公募戦略を立てるかなど、非常に参考になる、オススメの本です。拾い読みでなく、社会人の人こそ、じっくりと全部読まれて、大学教員とはどんな職業でどんな労働環境か、よくわかってから、公募に挑まれることを勧めます。
もし、本能寺の変の時に、インターネットがあったら・・・・?? [ソーシャルメディア]
インターネットや、それによるメール、Web、ブログ、ツィッターなどが、いかに人々のコミュニケーションを変えたか、それを、歴史的大事件の時に、もしインターネットがあったらと考えて見ると、その影響の大きさがわかるかなと思い、ちょいと考えて見ました。
【本能寺の変】
天正十年6月2日未明、本能寺の廊下を大慌てで走る森蘭丸。
「殿! 殿! 一大事でござる!」
信長は寝所のふとんを跳ね上げ、
「何事か」
と怒鳴る。
蘭丸は、懐からiPhoneを取り出し
「殿、このTwitterを見てください。容易ならざる事態のようです」
信長は一目、iPhoneの画面のTwitterを見るや、枕元の自分のiPadを取り出し、Twitterの画面を見入る・・・・。Twitterには次のようなTweetが次々に入ってくるのが見える。
『え? なに、この軍勢・・・』
『中国攻めでしょ?』
『四国攻めかも』
『いや、東に向かってるよ』
『どこを東? 関東へ?』
『桂川なう。大軍勢が東へ渡河』
『桂川から東って、京じゃん』
『謀反?』
『毛利勢?』
『こんな旗を (画像が添付)』
『この旗、水色桔梗だよ』
『水色桔梗なら・・・明智光秀!』
『この画像、この左の人って誰・・・?』
『齋藤内蔵助・・・・』
『やばいよ。なんで明智勢が東へ?』
『信長さんに知らせなきゃ』
『おーい、信長さん!』
『殿〜!』
蘭丸が、「殿、これは謀反では・・・」と言おうとすると、すでに信長の姿はない。
廊下の遠くで大股で入り去る音、そして、大音声で
「馬曳け〜い!」
かくして、信長が単騎、まっしぐらに安土城に駆け戻り、軍勢を整え、光秀の反乱に対抗したのでありました。
めでたし、めでたし・・・
【本能寺の変】
天正十年6月2日未明、本能寺の廊下を大慌てで走る森蘭丸。
「殿! 殿! 一大事でござる!」
信長は寝所のふとんを跳ね上げ、
「何事か」
と怒鳴る。
蘭丸は、懐からiPhoneを取り出し
「殿、このTwitterを見てください。容易ならざる事態のようです」
信長は一目、iPhoneの画面のTwitterを見るや、枕元の自分のiPadを取り出し、Twitterの画面を見入る・・・・。Twitterには次のようなTweetが次々に入ってくるのが見える。
『え? なに、この軍勢・・・』
『中国攻めでしょ?』
『四国攻めかも』
『いや、東に向かってるよ』
『どこを東? 関東へ?』
『桂川なう。大軍勢が東へ渡河』
『桂川から東って、京じゃん』
『謀反?』
『毛利勢?』
『こんな旗を (画像が添付)』
『この旗、水色桔梗だよ』
『水色桔梗なら・・・明智光秀!』
『この画像、この左の人って誰・・・?』
『齋藤内蔵助・・・・』
『やばいよ。なんで明智勢が東へ?』
『信長さんに知らせなきゃ』
『おーい、信長さん!』
『殿〜!』
蘭丸が、「殿、これは謀反では・・・」と言おうとすると、すでに信長の姿はない。
廊下の遠くで大股で入り去る音、そして、大音声で
「馬曳け〜い!」
かくして、信長が単騎、まっしぐらに安土城に駆け戻り、軍勢を整え、光秀の反乱に対抗したのでありました。
めでたし、めでたし・・・
日経トレンディネット「ツイッターはフォロワー数よりリツイート数! 効果的なつぶやきがある!?[映画宣伝のSNS戦略・前編]」を読んで [大ヒットの方程式]
日経トレンディネット「ツイッターはフォロワー数よりリツイート数! 効果的なつぶやきがある!?[映画宣伝のSNS戦略・前編]」を読んで
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20110201/1034343/?ST=hitken&P=1
日経トレンディネットに載り、ツィッターでもリツィートされている「ツイッターはフォロワー数よりリツイート数! 効果的なつぶやきがある!?[映画宣伝のSNS戦略・前編]」を非常に興味深く読みました。私達の著書「大ヒットの方程式」とも繋がる議論があるので、それについて、項目ごとに私なりのコメントをしてみました。
なお、著作権を考えて、記事の内容は引用せず、5つの項目名だけを引用させていただいてますので、まずは元の記事を読んでからこちらを読まれるといいと思います。
-----------------------------------------------------------------------------------------------
(1)ポータルサイトのニュースとツィッター、一番違うのは?
これは書かれているとおりですね。ポータルサイトのニュースと同じことをツィッターで繰り返し、これに消費者が反応してレスを返しても、それは無視されてしまうことをたまに見かけますが、これではツィッターで宣伝している意味がないです。映画宣伝とは違いますが、自治体である鳥取県の公式ツィッターアカウント @tottoripref などは、実にきめ細かくレスを返していて、このようなマメさがいろいろな宣伝でも必要になってくるでしょう。マメなアカウントを見慣れてきている消費者には、レスを返さないアカウントは、冷たく、高慢というマイナス印象を与えかねません。
(2) 効果的なつぶやき、更新方法とは?
こまめな更新が勧められていますが、「大ヒットの方程式」から見ても、まさにそのとおりです。こまめな更新と、それへの消費者、潜在的観客の反応は、SNSでは他の人も見てますので、更新とそれへの消費者の反応そのものが、宣伝になってます。また、「大ヒットの方程式」でも書いてますが、単発の宣伝、アナウンスは、2日ほどで消費者の印象から消えてしまいます。ですから、盛り上げるためには、宣伝側からの更新だけでなく、それへの消費者の反応も含めて、2日以上空けないという配慮が必要です。連続して大きな話題を出すのは無理だと思いますので、なるべく小刻みでいいから、マメに更新を。また、その更新に映画本体以外の話題もあれば、それは「大ヒットの方程式」にも吉田先生が書かれている『周辺話題性』に繋がり、複線で盛り上がりを起こすことが出来ます。
また、更新内容も、この記事で書かれているように、単なる告知では消費者は無視するでしょう。すでに知っているので。やはり、ツィッターで熱心なファンからのレスに、丁寧に応対すること。その丁寧な応対が終日続くと、その応対に対してまたレスがあるでしょう。それが盛り上がりになります。ツィッターでの盛り上がりとはキャッチボールのようなもので、それが、公式告知の繰り返しだけでは、壁打ち練習になってしまいます。
(3)大切なのはフォロワー数よりリツィート数
フォロワー数は読者の数ですから、宣伝側の書込がどれだけ直接伝わるかの目安として確かに重要です。ただ、フォロワー数だけで言えば、どのツィッターアカウントもテレビ放送にはかないません。いくらテレビの力が落ちてきていると言っても、やはり案外重要です。フォロワー数をやたらに増やしてテレビ放送に対抗しても意味無いことで、ツィッターならではのことは、そのツィートを見た消費者のレスやコメント付きリツィート。映画内容の評価を含むコメントが入ったリツィートが効果的なら、これほど有効な宣伝はありません。とにかく、一般消費者のリツィートである以上、”やらせ”でないとハッキリしているわけですから。
つまり、「大ヒットの方程式」で言えば、公式告知だけをツィートするということは、『広告・宣伝の項』を大きくしていることと同じです。これによる盛り上がりは限度があります。リツィート数が増えることは直接コミュニケーションになりますし、リツィートがさらにリツィートされていくと、これは間接コミュニケーションに繋がって大きな盛り上がりを生むはずです。
多くのフォロワーを抱える著名人のリツィートが重要であることは言うまでもないですが、それはあくまで結果。いろんなリツィートが溢れるようになると、自然と著名人のリツィートも混じってくると思います。
(4)フォロワー数を増やす方法とは?
自分のつぶやきに反応して公式アカウントがフォローしてくれたらうれしいですよね。私の経験では特に映画の公式アカウントがフォローしてくれたことはないですが、それでも、つぶやいたネタに近い立場の人がすぐフォローしてくれるのはうれしいです。そんな人間の心理をうまくついた、こまめな努力が必要なんでしょうね。
11月の明治大・水野誠先生のJIMS部会でお聞きした話と記憶してますが、企業アカウントの詳細な研究によると、フォロワーに対してフォローを返している場合と、まったく企業からはフォローしていない場合とがあります。企業側のツィートに対してのレスならフォローして無くても入ってきますから、フォロー返ししてなくても問題無いという見方もありますが、1人1人のフォロワーの立場で考えたら、フォロー返してくれた方がうれしいに決まってます。そのあたりの心理をどう掴むか、でしょうね。
(5)リアルとのコラボで、ツィッターの魅力を引き出す
ツィッターがリアルとコラボ出来ると言うことは、「大ヒットの方程式」で吉田先生が言う『周辺話題性』と繋がります。そのリアルとのコラボを、参加した消費者がツィートしてくれれば、それがまた話題となってツィッターで盛り上がります。そのあたりが、熱心なファンが行って楽しむだけでなく、ファン層を広げるような、つまり、「大ヒットの方程式」で言う間接コミュニケーションを盛り上げる方向で話題が進むように仕掛けるというあたりが肝要でしょう。
ツィッターが実際のリアルな世界とコラボレーションというのは楽しいでしょうね。私のように鳥取にいると、まずそういうことは考えられないので、ツィッターで触れている世界がそのままリアルとコラボというのが簡単に実現出来る東京はうらやましいと思いますね。
逆に、地方活性化でも、水木しげるロードのように、リアルな世界を持っている一方で、ツィッターとコラボするというのは、アリではないかなと思います。まぁ、水木先生に鬼太郎の名のアカウントでつぶやいてくださいとは言えませんが。笑
映画宣伝における「空中戦」「地上戦」
これは番外コメントです。よく広告宣伝の人たちは放送を使うことを「空中戦」、口コミを「地上戦」と言いますが、私は微妙に違和感を持ってます。空中戦とは多くは戦闘機・爆撃機と迎撃戦闘機との戦闘をを指すのに対し、放送で一気に宣伝を拡げるのは、どちらかと言うとミサイルによる集中攻撃で一気に闇雲に相手に広く打撃を与えるのに似ているからです。
ま、それはさておき、戦略、戦術の立場で言うと、空中戦と地上戦のどちらがいいと言うのではなく、どちらも重要です。要はいかに組み合わせるかです。それは実際の軍隊の戦略、戦術でも同じで、空中戦で優位でもベトナム戦争の米軍のように地上戦で大敗北を喫する場合もありますし、逆に地上戦が優位でも空中戦で負けて優位を喪失した、1944年冬のアルデンヌ攻勢でのドイツ軍(俗に言うバルジ大作戦)の場合もあります。タイミングとバランスが重要です。これは、「大ヒットの方程式」にも、P.40に書いてます。
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20110201/1034343/?ST=hitken&P=1
日経トレンディネットに載り、ツィッターでもリツィートされている「ツイッターはフォロワー数よりリツイート数! 効果的なつぶやきがある!?[映画宣伝のSNS戦略・前編]」を非常に興味深く読みました。私達の著書「大ヒットの方程式」とも繋がる議論があるので、それについて、項目ごとに私なりのコメントをしてみました。
なお、著作権を考えて、記事の内容は引用せず、5つの項目名だけを引用させていただいてますので、まずは元の記事を読んでからこちらを読まれるといいと思います。
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(1)ポータルサイトのニュースとツィッター、一番違うのは?
これは書かれているとおりですね。ポータルサイトのニュースと同じことをツィッターで繰り返し、これに消費者が反応してレスを返しても、それは無視されてしまうことをたまに見かけますが、これではツィッターで宣伝している意味がないです。映画宣伝とは違いますが、自治体である鳥取県の公式ツィッターアカウント @tottoripref などは、実にきめ細かくレスを返していて、このようなマメさがいろいろな宣伝でも必要になってくるでしょう。マメなアカウントを見慣れてきている消費者には、レスを返さないアカウントは、冷たく、高慢というマイナス印象を与えかねません。
(2) 効果的なつぶやき、更新方法とは?
こまめな更新が勧められていますが、「大ヒットの方程式」から見ても、まさにそのとおりです。こまめな更新と、それへの消費者、潜在的観客の反応は、SNSでは他の人も見てますので、更新とそれへの消費者の反応そのものが、宣伝になってます。また、「大ヒットの方程式」でも書いてますが、単発の宣伝、アナウンスは、2日ほどで消費者の印象から消えてしまいます。ですから、盛り上げるためには、宣伝側からの更新だけでなく、それへの消費者の反応も含めて、2日以上空けないという配慮が必要です。連続して大きな話題を出すのは無理だと思いますので、なるべく小刻みでいいから、マメに更新を。また、その更新に映画本体以外の話題もあれば、それは「大ヒットの方程式」にも吉田先生が書かれている『周辺話題性』に繋がり、複線で盛り上がりを起こすことが出来ます。
また、更新内容も、この記事で書かれているように、単なる告知では消費者は無視するでしょう。すでに知っているので。やはり、ツィッターで熱心なファンからのレスに、丁寧に応対すること。その丁寧な応対が終日続くと、その応対に対してまたレスがあるでしょう。それが盛り上がりになります。ツィッターでの盛り上がりとはキャッチボールのようなもので、それが、公式告知の繰り返しだけでは、壁打ち練習になってしまいます。
(3)大切なのはフォロワー数よりリツィート数
フォロワー数は読者の数ですから、宣伝側の書込がどれだけ直接伝わるかの目安として確かに重要です。ただ、フォロワー数だけで言えば、どのツィッターアカウントもテレビ放送にはかないません。いくらテレビの力が落ちてきていると言っても、やはり案外重要です。フォロワー数をやたらに増やしてテレビ放送に対抗しても意味無いことで、ツィッターならではのことは、そのツィートを見た消費者のレスやコメント付きリツィート。映画内容の評価を含むコメントが入ったリツィートが効果的なら、これほど有効な宣伝はありません。とにかく、一般消費者のリツィートである以上、”やらせ”でないとハッキリしているわけですから。
つまり、「大ヒットの方程式」で言えば、公式告知だけをツィートするということは、『広告・宣伝の項』を大きくしていることと同じです。これによる盛り上がりは限度があります。リツィート数が増えることは直接コミュニケーションになりますし、リツィートがさらにリツィートされていくと、これは間接コミュニケーションに繋がって大きな盛り上がりを生むはずです。
多くのフォロワーを抱える著名人のリツィートが重要であることは言うまでもないですが、それはあくまで結果。いろんなリツィートが溢れるようになると、自然と著名人のリツィートも混じってくると思います。
(4)フォロワー数を増やす方法とは?
自分のつぶやきに反応して公式アカウントがフォローしてくれたらうれしいですよね。私の経験では特に映画の公式アカウントがフォローしてくれたことはないですが、それでも、つぶやいたネタに近い立場の人がすぐフォローしてくれるのはうれしいです。そんな人間の心理をうまくついた、こまめな努力が必要なんでしょうね。
11月の明治大・水野誠先生のJIMS部会でお聞きした話と記憶してますが、企業アカウントの詳細な研究によると、フォロワーに対してフォローを返している場合と、まったく企業からはフォローしていない場合とがあります。企業側のツィートに対してのレスならフォローして無くても入ってきますから、フォロー返ししてなくても問題無いという見方もありますが、1人1人のフォロワーの立場で考えたら、フォロー返してくれた方がうれしいに決まってます。そのあたりの心理をどう掴むか、でしょうね。
(5)リアルとのコラボで、ツィッターの魅力を引き出す
ツィッターがリアルとコラボ出来ると言うことは、「大ヒットの方程式」で吉田先生が言う『周辺話題性』と繋がります。そのリアルとのコラボを、参加した消費者がツィートしてくれれば、それがまた話題となってツィッターで盛り上がります。そのあたりが、熱心なファンが行って楽しむだけでなく、ファン層を広げるような、つまり、「大ヒットの方程式」で言う間接コミュニケーションを盛り上げる方向で話題が進むように仕掛けるというあたりが肝要でしょう。
ツィッターが実際のリアルな世界とコラボレーションというのは楽しいでしょうね。私のように鳥取にいると、まずそういうことは考えられないので、ツィッターで触れている世界がそのままリアルとコラボというのが簡単に実現出来る東京はうらやましいと思いますね。
逆に、地方活性化でも、水木しげるロードのように、リアルな世界を持っている一方で、ツィッターとコラボするというのは、アリではないかなと思います。まぁ、水木先生に鬼太郎の名のアカウントでつぶやいてくださいとは言えませんが。笑
映画宣伝における「空中戦」「地上戦」
これは番外コメントです。よく広告宣伝の人たちは放送を使うことを「空中戦」、口コミを「地上戦」と言いますが、私は微妙に違和感を持ってます。空中戦とは多くは戦闘機・爆撃機と迎撃戦闘機との戦闘をを指すのに対し、放送で一気に宣伝を拡げるのは、どちらかと言うとミサイルによる集中攻撃で一気に闇雲に相手に広く打撃を与えるのに似ているからです。
ま、それはさておき、戦略、戦術の立場で言うと、空中戦と地上戦のどちらがいいと言うのではなく、どちらも重要です。要はいかに組み合わせるかです。それは実際の軍隊の戦略、戦術でも同じで、空中戦で優位でもベトナム戦争の米軍のように地上戦で大敗北を喫する場合もありますし、逆に地上戦が優位でも空中戦で負けて優位を喪失した、1944年冬のアルデンヌ攻勢でのドイツ軍(俗に言うバルジ大作戦)の場合もあります。タイミングとバランスが重要です。これは、「大ヒットの方程式」にも、P.40に書いてます。
Facebookと日本の文化との食い違い [ソーシャルメディア]
なぜ、Facebookが日本ではバッと流行らないのか、いろいろ考えてますが、理由は案外簡単かも、と昨日思いつきました。
Facebookは、本来、アメリカの大学で習慣として行われた、新入生の顔写真付き紹介の本、フェイスブック(顔の本)をネット化しようとしたものです。アメリカの大学では、自分たちの仲間に新たに加わった新入生にいろいろ自分たちのコミュニティに入れる誘いをしようと、そうしたフェイスブックは需要があるのでしょう。なので、それを電子化し、さらに各大学で実施。すごく自然な流れです。
翻って日本は、顔写真付きのフェイスブックどころか、学生名簿を作成すること自体が個人情報保護法との絡みで微妙で、最近は学生名簿を作らない大学、小中高が増えてます。少なくとも学生名簿は個人情報保護法の対象とみなされ、作成してもそれは成績管理用で、学生たちには配布しないとか。
まして、学校以外の社会、例えば会社では考えられないでしょう。「**会社新入社員」とかいう冊子を作り、それを社内だけでなく、一般にも販売するなど、やっている会社は1社も無いでしょうし、やろうとしても賛成が得られるとは思えません。
そんな、個人情報保護法の下で極端に個人情報の公開を制限し、しかもそれが悪法呼ばわりされるのではなく、なんとなく社会に馴染んで強い反対は無い気がします。そんな日本社会の文化に、フェイスブック。元々、無理かも。
Facebookは、本来、アメリカの大学で習慣として行われた、新入生の顔写真付き紹介の本、フェイスブック(顔の本)をネット化しようとしたものです。アメリカの大学では、自分たちの仲間に新たに加わった新入生にいろいろ自分たちのコミュニティに入れる誘いをしようと、そうしたフェイスブックは需要があるのでしょう。なので、それを電子化し、さらに各大学で実施。すごく自然な流れです。
翻って日本は、顔写真付きのフェイスブックどころか、学生名簿を作成すること自体が個人情報保護法との絡みで微妙で、最近は学生名簿を作らない大学、小中高が増えてます。少なくとも学生名簿は個人情報保護法の対象とみなされ、作成してもそれは成績管理用で、学生たちには配布しないとか。
まして、学校以外の社会、例えば会社では考えられないでしょう。「**会社新入社員」とかいう冊子を作り、それを社内だけでなく、一般にも販売するなど、やっている会社は1社も無いでしょうし、やろうとしても賛成が得られるとは思えません。
そんな、個人情報保護法の下で極端に個人情報の公開を制限し、しかもそれが悪法呼ばわりされるのではなく、なんとなく社会に馴染んで強い反対は無い気がします。そんな日本社会の文化に、フェイスブック。元々、無理かも。
Facebookは日本で成功するのか? [ソーシャルメディア]
Facebookがなぜ日本では流行らないのか?映画「ソーシャル ネットワーク」の封切りもきっかけになって、あちこちで、Facebookは日本社会で成功するかという議論がされています。別に流行に乗るわけではないですが、私自身、twitterなどに比べてもFacebookには違和感を感じる部分があるので、私なりに考えて見ました。
ザッカーバーグが初期に開発した「コースマッチ」というサイトでは、それぞれの講義ごとの名簿がオンラインで見られ、さらにその講義受講者名をクリックするとその人が参加している講義が見られる。私が所属する大学の場合、受講システムというソフトでその種の機能は存在はしているが、一般の学生や一般の教授・准教授でさえ、そのようなアクセスは禁止されている。それぞれの学生個人のプライバシーの侵害という見地からである。と言うのも、その種のアクセスがオープンになれば、どの学生がその講義の単位を落としたかが明らかになってしまうだろうということだ。このあたり、アメリカではまったく問題になっていないのだろうか?このように、大学内の生活を取ってみても、そもそもアメリカと日本でそれは大きな違いがある。
アメリカは、目立つほど得する社会。チャンスは平等なので、目立つとチャンスが来る。そして、アメリカは徹底的なコネ社会なので、コネをどう作るか、そのためには目立たないだめだと、という発想になる。アメリカでのコネとは、もちろん血縁関係や小学校の同期とかいうコネもあるけど、他に大学時代の知り合いというコネも大きい。日露戦争の時にアメリカを親日的に動かそうと日本政府が使ったのは、金子堅太郎がセオドア・ルーズベルト大統領とハーバード大学で同期というコネである。これは有効に働いたらしい。
日本は、目立つと損をする社会。就職も育ちや学歴などいろいろな要素が配慮され、実力はその一部でしかない。しかも、目立つ人は嫌われる。日本の社会にもコネはあるけど、日本で就職などに力を持つコネは親族のコネ。血縁関係のコネ。あるいは幼なじみのようなコネ。従って、Facebookで作れるようなコネではない。なので、Facebookでいくら頑張って交友関係を拡げても、それが就職等で役立つコネにはならないのは明らかなので、日本の若い人はそういう方向でFacebookを利用しようとは、まず思わないのではないか。
また、日本では、プライベートと表と分けたい傾向が目立つ。個人では、表社会にプライベートがわかって得することなんてないから。
私がFacebookに加入した瞬間にウチの研究室の学生が紹介されてきた。後日その学生に聞いてみたところ、「友達登録は即座に拒否します」とのこと。日本ではそうなんです。指導教授という絶対的上位にある上司に、自分のプライベートを覗かれたくない、それが学生に限らず日本人一般の心理でしょう。自分の密かな行きつけの店があるとして、それを仕事仲間などに知られずにいたいというのは、日本人によくある心理でしょう。
Facebookはまったく逆で、自分が密かに知ってる行きつけの店をFacebookに書いて大々的に宣伝し、それを見た仕事仲間やネット仲間が大勢やってくるのをお店に自慢して、宣伝効果に見合う値引きを要求するという感じでしょう。いかにもアメリカ的と言えます。
日本社会では長いこと、仕事仲間と職場以外でも毎晩お酒を飲むなど、一緒に行動する習慣があった。今では以前よりその傾向は少なくなってきたけれど、それでも根強い習慣である。そんな職場でもプライベートでもべったりという環境では、仕事仲間とは切り離された時間空間、あるいはネットワークは、ほっと一息つく憩いの場なのではないか。アメリカの場合はそんな昼も夜もというつきあいはなく、仕事仲間とは仕事の時間だけ。勤務時間が終わったらドライにそれぞれのプライベートな時間に散っていくから、むしろプライベートと仕事と両方わかってくれる仲間が欲しいという心情もあるのではないか。だとすれば、実名で公開するFacebookがアメリカで流行る理由もわかる気がする。
アメリカの大学で成長したシステムなのでFacebookは入るときに所属するネットワークを申告させてそのネットワーク内にいるFacebook加入者を紹介する仕組み。特にセキュリティの設定をしない限り、同一ネットワーク所属者同士はプロフィールなどの情報を自由に閲覧できる。これは「ネットワーク=所属する大学」と考えると同一大学の学生同士ならよくわかるシステムだが、日本で既に会社等社会で生活を営んでいる一般の市民が個人でいろんなプロバイダに加入していることを考えると、日本の個人ではネットワーク申告は意味が無い。docomo.jpのネットでFacebookを利用している人を紹介されたり自由に閲覧できるようにされても困るだけ。同じネットに加入していても、縁が無い人ばかり。メールのネットワークに加入している人はみんな知り合いと仮定しているSNSなので、日本の実情からは困ることが多い。
日本だと、法人にはいいかもしれない。個人には、Facebookのメリットはあまりない。日本だと、仕事場、仕事と関係あるネットワーク、家族、趣味、近所、さまざまなネットワークがあり、それぞれの何人かと繋がっている。それをいきなりフラットに解析されて、自分と繋がってる全員が友達の友達だと言われて紹介されちゃっても、困るだけ。メリットのある日本人は誰もいないのでは。例えば、大学の准教授をしている女性が近所の奥様方と子育てについてあれこれ井戸端会議をしているとき、普通は自分が大学准教授であるという肩書きは隠したいだろう。それを表に出すと近所づきあいがしにくいからだ。また、茶道に熱心な人が茶道の会合に出るときに、それぞれの仕事上のつきあいのある人の話などを持ち出して会話するなどは避けるだろう。あくまで茶道の会なら茶道に関係した友人に話を限るはずである。そうしないと、日本では特に大都市では人口が密集しているので、知り合いを増やしすぎるとプライベートが事実上無くなってしまう。
どうやら、Facebookは、基本的には、公開されて困る友人はいなくて、友人は多ければ多いほどよくて、友人の友人とたぐって知り合いになるのは、いい事に決まっているという前提で設計されているようだ。例えば、採用人事で水面下で接触してきて、結局応募しなかった人なんかが友人として扱われてFacebook上で公開されたりしたら、お互い困るだけでしょう。そんな配慮は基本設計では、なされていない。
Facebookの説明にも、「Facebookはリアルな交友関係のある人たちが、より緊密に繋がるところ」と表現していて、やはり警戒しなくていい知人関係を暗に仮定してシステムを設計しているようである。
文化がアメリカとは違うヨーロッパでは、Facebookは、どう使われているのだろう?


ザッカーバーグが初期に開発した「コースマッチ」というサイトでは、それぞれの講義ごとの名簿がオンラインで見られ、さらにその講義受講者名をクリックするとその人が参加している講義が見られる。私が所属する大学の場合、受講システムというソフトでその種の機能は存在はしているが、一般の学生や一般の教授・准教授でさえ、そのようなアクセスは禁止されている。それぞれの学生個人のプライバシーの侵害という見地からである。と言うのも、その種のアクセスがオープンになれば、どの学生がその講義の単位を落としたかが明らかになってしまうだろうということだ。このあたり、アメリカではまったく問題になっていないのだろうか?このように、大学内の生活を取ってみても、そもそもアメリカと日本でそれは大きな違いがある。
アメリカは、目立つほど得する社会。チャンスは平等なので、目立つとチャンスが来る。そして、アメリカは徹底的なコネ社会なので、コネをどう作るか、そのためには目立たないだめだと、という発想になる。アメリカでのコネとは、もちろん血縁関係や小学校の同期とかいうコネもあるけど、他に大学時代の知り合いというコネも大きい。日露戦争の時にアメリカを親日的に動かそうと日本政府が使ったのは、金子堅太郎がセオドア・ルーズベルト大統領とハーバード大学で同期というコネである。これは有効に働いたらしい。
日本は、目立つと損をする社会。就職も育ちや学歴などいろいろな要素が配慮され、実力はその一部でしかない。しかも、目立つ人は嫌われる。日本の社会にもコネはあるけど、日本で就職などに力を持つコネは親族のコネ。血縁関係のコネ。あるいは幼なじみのようなコネ。従って、Facebookで作れるようなコネではない。なので、Facebookでいくら頑張って交友関係を拡げても、それが就職等で役立つコネにはならないのは明らかなので、日本の若い人はそういう方向でFacebookを利用しようとは、まず思わないのではないか。
また、日本では、プライベートと表と分けたい傾向が目立つ。個人では、表社会にプライベートがわかって得することなんてないから。
私がFacebookに加入した瞬間にウチの研究室の学生が紹介されてきた。後日その学生に聞いてみたところ、「友達登録は即座に拒否します」とのこと。日本ではそうなんです。指導教授という絶対的上位にある上司に、自分のプライベートを覗かれたくない、それが学生に限らず日本人一般の心理でしょう。自分の密かな行きつけの店があるとして、それを仕事仲間などに知られずにいたいというのは、日本人によくある心理でしょう。
Facebookはまったく逆で、自分が密かに知ってる行きつけの店をFacebookに書いて大々的に宣伝し、それを見た仕事仲間やネット仲間が大勢やってくるのをお店に自慢して、宣伝効果に見合う値引きを要求するという感じでしょう。いかにもアメリカ的と言えます。
日本社会では長いこと、仕事仲間と職場以外でも毎晩お酒を飲むなど、一緒に行動する習慣があった。今では以前よりその傾向は少なくなってきたけれど、それでも根強い習慣である。そんな職場でもプライベートでもべったりという環境では、仕事仲間とは切り離された時間空間、あるいはネットワークは、ほっと一息つく憩いの場なのではないか。アメリカの場合はそんな昼も夜もというつきあいはなく、仕事仲間とは仕事の時間だけ。勤務時間が終わったらドライにそれぞれのプライベートな時間に散っていくから、むしろプライベートと仕事と両方わかってくれる仲間が欲しいという心情もあるのではないか。だとすれば、実名で公開するFacebookがアメリカで流行る理由もわかる気がする。
アメリカの大学で成長したシステムなのでFacebookは入るときに所属するネットワークを申告させてそのネットワーク内にいるFacebook加入者を紹介する仕組み。特にセキュリティの設定をしない限り、同一ネットワーク所属者同士はプロフィールなどの情報を自由に閲覧できる。これは「ネットワーク=所属する大学」と考えると同一大学の学生同士ならよくわかるシステムだが、日本で既に会社等社会で生活を営んでいる一般の市民が個人でいろんなプロバイダに加入していることを考えると、日本の個人ではネットワーク申告は意味が無い。docomo.jpのネットでFacebookを利用している人を紹介されたり自由に閲覧できるようにされても困るだけ。同じネットに加入していても、縁が無い人ばかり。メールのネットワークに加入している人はみんな知り合いと仮定しているSNSなので、日本の実情からは困ることが多い。
日本だと、法人にはいいかもしれない。個人には、Facebookのメリットはあまりない。日本だと、仕事場、仕事と関係あるネットワーク、家族、趣味、近所、さまざまなネットワークがあり、それぞれの何人かと繋がっている。それをいきなりフラットに解析されて、自分と繋がってる全員が友達の友達だと言われて紹介されちゃっても、困るだけ。メリットのある日本人は誰もいないのでは。例えば、大学の准教授をしている女性が近所の奥様方と子育てについてあれこれ井戸端会議をしているとき、普通は自分が大学准教授であるという肩書きは隠したいだろう。それを表に出すと近所づきあいがしにくいからだ。また、茶道に熱心な人が茶道の会合に出るときに、それぞれの仕事上のつきあいのある人の話などを持ち出して会話するなどは避けるだろう。あくまで茶道の会なら茶道に関係した友人に話を限るはずである。そうしないと、日本では特に大都市では人口が密集しているので、知り合いを増やしすぎるとプライベートが事実上無くなってしまう。
どうやら、Facebookは、基本的には、公開されて困る友人はいなくて、友人は多ければ多いほどよくて、友人の友人とたぐって知り合いになるのは、いい事に決まっているという前提で設計されているようだ。例えば、採用人事で水面下で接触してきて、結局応募しなかった人なんかが友人として扱われてFacebook上で公開されたりしたら、お互い困るだけでしょう。そんな配慮は基本設計では、なされていない。
Facebookの説明にも、「Facebookはリアルな交友関係のある人たちが、より緊密に繋がるところ」と表現していて、やはり警戒しなくていい知人関係を暗に仮定してシステムを設計しているようである。
文化がアメリカとは違うヨーロッパでは、Facebookは、どう使われているのだろう?

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